2010年06月22日

温故知新

温故知新


新しいものが好きだ、といつも騒いでいますが、
一転古いものを希求する気持ちも欲深くあります。
これは反動のようなものかもしれません。

今日、電車の窓からぼんやりと風景を眺めておりました。
梨園と高層マンションと古ぼけたトタン屋根。
これを交互に見ていると、わき上がる感情があり…。

今日の写真のような、都心の工事現場でも同じような気持ちになった。
なんといえば良いのか、うまく説明がつかないのだけど。

人がどんどん集うような都心に古い家が静かに建っている風景。
昔からの住宅街に新しい高層マンションがそびえ立っている風景。
どちらも淋しい。でも、一転、うれしいものにも思える。
複雑な気持ちなので、言葉にするのがとても難しい。

その整然としない風景に、一抹の胸騒ぎをおぼえる。
今という時代に生きているんだなぁと思う。
追いついているわけでもなく、取り残されもせず、
ただ時代の傍観者として自分が今、ここにいる。その身体的な感覚。

それは建物とか場所だけじゃなくて、人間に対しても同じ。

温故知新な人たち。
と、私が勝手に呼んでいるけど、私のまわりの人は
東京でも宮古でも同じで、新しくて古い部分を持っていて、
古くて新しい部分を持っている。
今という時代を、まわりに合わせるのではなく、自分の尺度で生きようとしている。
キャッチアップしている人生ではなく、イノベーター的な。

でも、それは決してメジャーな感じではない。
その人なりのカスタマイズ感とマイナー感。
それは時として淋しくもあり、美しくて優しい。

そんな人たちに日々、出会うと、
自分の立ち位置が自然に決まる気がする。

こんな風に、誰か他人のことを思えるのが、私にとっては幸せの時間のように思える。
自分の根底を否定することもなく、かといって自己顕示することもなく、
ただ自然にそこにいるということを享受できる瞬間。

宮古のおばぁたちが、仏壇や庭や台所の神様に
トォトゥーと手をかみている(手を合わせている)のと
同じような気持ちではないかと思う。

イケイケの波に乗る、という考え方ではなく、
時代という波に自分なりに古き良きものを残しつつ乗る。

なんとなく、しばらくのテーマだなと思う。
私の感受性は、論理的ではなく、空気感というような把握の仕方のように思う。
別に聞こえるわけでもなく、見えるわけでもなく、言語化できるわけでもない。
でも、ただわかるということは、わかる。

これはシュタイナーだとかモッテッソーリとか、
やはり幼児教育の書籍にいろいろと書かれているのだけど、
私がそういう本に魅かれてしまうのは、人間誰しも持つ感受性の種類が
事細かに書かれているからだと思う。
これが人間関係の相性というものにも深く結びついているような気がする。
その人本来、その子ども本来がもともと持っている質と言えばいいのか。

などなど、マイナーな私のマイナーなテーマではないかと、
見知らぬ街の見知らぬ駅のコーヒー屋でつらつらと思うのでした。




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Posted by 宮国優子 at 09:47│Comments(0)営業日報
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