2014年02月06日
あわいに揺らぐ ローカリズムの可能性
*写真は私が思う究極の自己主張です、笑
【外に開きながら、内を深める】
そんなことが宮古島はできるのじゃないかと思っている。
多くの人が交差する宮古島。
宮古に住み続ける【ローカルの極みの宮古人】と【チャレンジャーな内地の移住組】。
前者は無意識のことも多いけど、後者の自意識の高さは目を見張る。
今の時代、人間にこんなコントラストがある島があるだろうか。
水玉とストライプのコーディネートみたいだ。目が痛いけど、釘付け。
宮古だって老齢人口は確実に増えている。
でも、ローカルに根ざした智慧は簡単に消えてはなくならない。
そして、移住者の若さやパワーは島に生成するのはとても難しい。
天秤にかけると、美しいゆらぎを見せるのではないか、と思う。
宮古というキャパシティだからこそ出来ること、絶対にある。
先々の時代のローカルのモデルになれる状況がある、と確信している。
宮古らしくあれという意味ではない。
その土地土地のローカリズムを発揮してほしい。
翻って、私たちは今、現在が時代の最先端で、この時代を生きていかなきゃいけない。
でも、振り返って、同じ過ちをおかしてはならない、と心に刻む必要もある。
同じ時代、同じ人、同じメンタリティじゃないからこそ、面白い。
宮古という場所は、大きな天秤をみんなでわかちあえる可能性が大きいと思う。
そこに生まれるのが洗練された自治なのではないかと夢想する。
自分自身のバランスを考えてみた。
宮古に生まれ育ち、幼少期は宮古にどっぷりだった。
1970年代の宮古。
きわめて土俗的で、長い中世期から引き続く世界。
その世界観のなかで宮古のほとんどの庶民は生きていて、心根は「漕ぎ出していかん」という外を求めるものと「今あるもののなかでどれだけ楽しめるか」という貧しい自然環境に対峙する内なる緊張感。
だからこそ、沖縄県のなかでは日和見主義とも思われる自治を貫いているのだと思う。
沖縄本島は沖縄本島。宮古は宮古だと意識は何世代にわたっても抜けない。
私は幼稚園で初めて西洋文化にふれた。
ドル札がどれだけまわりにあっても、それは文化を伝えない。
ただの道具だから。文化は人から伝わる。
その幼稚園は、NYのイタリア移民の消防士たちの寄付で作られたと聞いたことがある。
もしかしたら、嘘かもしれないけど、完全形のモンテッソーリなので、信憑性は高い。
それが、完全形モンテッソーリだと偶然25年後の東京で知ることができました。
目の前に現れた寸分たがわないモンテッソーリ本部の教室の様子に衝撃でした。
縁とはとても不思議なものです。
こうして、あとから気づくことの連続は、私が島を出たからこそだと思う。
天秤のはかりには乗れないかもしれないが、周辺整備はできる。
天秤を磨き続けることはできる。
勝手なイメージだけど、その天秤は太古の昔から変わらない普遍的な美しさを持つと思う。
当時、神と結婚したシスターの所作やふるまい、言動をかいま見て、外の世界との落差を全身で感じながらも素直に受け入れられた。
宮古には【土俗と西洋文化を咀嚼できる顎】を持つ友人たちが驚くほど数多い。
それはそのような背景もあったのではないかと思う。
留学する人のあの多さは尋常じゃない。
ずっと屈伸をしていた離島だからだろうか。今、やっとジャンプできるのだ。
宮古の人は【本物のコスモポリタン】だよ、と言った久保田麻琴さんの言葉をやっとわかってきた。
(久保田さんはこういう方です。HP死ぬほどかっこいい・・。http://kubotamakoto.com/)
別に宮古の人に変な選民意識を持っているわけでない。
どの地域でもこのローカルと中央のコントラストの影響からは誰も逃れられないと思う。
島は私がある程度知っているから書けるだけ。
そして、今、東京の庶民どっぷりなのも私のなかではとても熱い。
ここは時代の波がビビットに生活に家庭に反映している場所だから。
ローカルを面白がりたい。縁のある人のローカルもふれたい。
それはなんと驚くほどご縁があると衝撃を受ける。
ここらへんは、別にまた書きたいくらい。
(この科学の時代に土地の先祖によって、人と人は結びつけられると思うくらいだ。それはちょっと怖くもあるのが実感です。点と線が時空をこえてます、笑)
私の心が震えるのは、ローカリズムの可能性。
グローバリズムの声が久しいけど、人の物差しにのってたまるか、と思う。
言語を習得するのは、協力関係が作れるというのが最大のメリットじゃないか。
JK法の川喜田さんが書いていた。
はっきりと言葉がでてこないけど「世界を愛する者はローカルを愛する。ローカルを愛する者は世界を愛する」というようなこと。どちらかではないのだ。愛する力は実は双方向に向くのだと思う。
内と外、どっちに寄ってもつまらない。
時代に合わせて、ローカリズムとグローバリズムのあわいに揺らごう。
とっちらかったけど、私が宮古の近代に熱くなる理由は、すべてそこにある。個人の幸せなくして、日本や世界の幸せはない。本気でそう思い始めた。ナイーブな選挙演説みたいですね。
Posted by 宮国優子 at 12:56│Comments(0)
│宮古現今
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