2014年03月11日

わたしたちは(宮古の)神話のなかに生きている

わたしたちは(宮古の)神話のなかに生きている
久松五勇士の裏にいた現代の久松小学生五勇士


【わたしたちは(宮古の)神話のなかに生きている】

この言葉は、今回宮古に聞き取りにいった時の仲宗根將二先生の言葉です。
質問の間の、ちょっとしたお喋りに、この一言が先生の口から発されたとき、私はドキリとした。

リピートします。【わたしたちは(宮古の)神話のなかに生きている】

次の日の朝、私はその言葉が頭の中によぎりながら目覚めた。
それほどインパクトのある言葉だったのだと思う。

【宮古の人はいつから日本人だと思ったのですか?】

と、数年前、内地の人に聞かれたときの衝撃に近かった。
何度も繰り返し考えたけど、答えがわかるはずもなく・・・。


【わたしたちは(宮古の)神話のなかに生きている】
【宮古の人はいつから日本人だと思ったのですか?】


この二つの言葉は無関係なように思えるけれど、私には同じトーンで迫ってきた。

宮古の神話の中に生きているような生活様式やメンタリティだと、日本人という言葉の枠にはまらない。

国という単位で物事を考えると、外交とか経済をリアルに感じる。
でも、神話の中に生きていれば、生死や感情の方がよりリアルに感じる。

では、宮古は現実を生きていないか、と言われれば、そうではない。
コンビニがあって、観光客数が伸びて、インターネットがつながる。
どんな人にでも経済がついてまわる。

でも、精神性は振れ幅が大きく、時には複雑なように思う。感情というか、感性や直観力が宮古の人の心の中心のように思えてならない。別にそれは悪いことではなく、表面的な現実社会が覆っているのが、その豊かな感情のかたまりのように感じるのだ。

えーと、あんこの大きい大福とかイチゴの大きいショートケーキとか。
たまに中身がボコボコはみ出している。はみ出しまくる熟れた果実のような。

私はそれが神話的で、無骨で、愚直な宮古、宮古人という気がしてならない。自分で書いていて、よくわからないけれど、その【デコボコな何か】が徐々に人から人に感染して、その人ならではのむき出しの本性が現れるように思う。

一言で言えば【風土】なのだろうか。【風と土】は【人】を作る。
しばし思い出す、あの吹きっさらしの赤土の島。
着るものも吹きさらっされて、飛んでいく。足下には赤い大地。


仲宗根先生の言葉を聞きながら、気が遠くなった。自分の無知さに目眩がした。私たちの祖先はこの厳しい風土の中を生きのびてくれたからこそ、今自分がここにあるということの希有。悩んだり嘆いたりする時間がもったいなく感じた。


あわただしかった旅なのに、大事なところだけきちんと腑に落ちたように思った。


これは何も宮古に限った話ではないと思う。自分のルーツを知るものだけに与えられたノスタルジーであり矜持。アイデンティティとか。誰もが無意識下に横たわっている、そんな何か。

具体的なことは何も書けないけど、ただ、その空気感を今書き留めたいと強く思った。
まだ魂が宮古から戻ってきてないからかも、笑。



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Posted by 宮国優子 at 17:48│Comments(1)宮古現今
この記事へのコメント
宮国さん、こんばんは♪

いいなっぁ~帰省、うちは2年も帰省できていない。

前回、帰省した時の宮古島での雨の風景を携帯で録画したのを時折、観ては宮古島を思い出している。なぜか、宮古島の雨の風景と雨上がりの雨に濡れた?赤土の匂いがが大好きです。
Posted by 宏美 at 2014年03月13日 22:53
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