2014年04月07日

教育と役割プレイ

教育と役割プレイ




四月ですね。桜が葉桜になりそうな東京です。

娘たちが新学年になります。勿論、担任も替わる。当たり前と言えば当たり前なのだけど。子どもが減ったせいか、それとも保護者の教育者信仰が薄らいだせいか、水面下の学校トラブルが増えているなぁと感じる。水面下でモヤモヤって感じだろうか。お茶を濁している感じかもしれない。


たまーに、教育の意味、教育者の意味、を考える。僭越ながら。


明治から昭和のある時期まで、教育者は宮古では特権的だった。彼らは教育者でもあり、ある人は文学者でもあり、ある人は精神科医でもあり、ある人は政治家であり。さまざまな役を担った人々であると思う。地域社会の要になる人たちだった。

当時は宮古では師範学校に行くことが唯一、教育を受けられるコースだった。その頃の向学心に燃える人たちの軌跡がいろんな文献に散見できる。

希少な人たちだったと思う。まわりの無学な人たちはあがめ奉り、そして教育者自身がきちんとした人間であろうと、ある意味自分で自分を縛るようなひともいたと思う。

今はどうなのかと考える。特に私が東京の教育熱心な地域にいるからかもしれないけど、いろいろ頭をもたげる。今や公教育の場では、先生たちががまるで保護者のサーバントのような気さえする。子どもたちも親が先生をみくびっているのを敏感に察知して、ふんぞりかえっている。私はそんな子どもは勉強を教わる前の段階だと思うので、いくら頭が良くてもはたきたくなる。

人にものを教えるって、どんなに大変なことだろうか、と思うので。

今の世の中、保護者も自由に意見が言えるのは素晴らしいけれど、まだ話し合いのテーブルに上手にのれる人は少ない気がする。自然な根回しが必要な時も多いし、コミュニケーション能力をフルに使わないと難しいと思うし。勿論、先生方も上手かと言えば、そうでないのかもしれない。

解決策ってあるんだろうか、と学校と保護者のもめているのをはたから見ていて思う。私自身は良好な関係で、教育を受けさせて頂いているという気持ちの方が大きいので、ほとんど文句はない。それはうちの娘たちが【教わることや知ることの喜び】を語ってくれるからかもしれない。どれだけ家で勉強させてないんだ、っていう話ではありますが。米を炊けるとか、靴下を手洗いできるとか、その方を優先させています。ガスで米が炊けるようになったとき、娘たちは免許皆伝だと本気で思ってます。

話を戻します。解決策ってあるんだろうか・・・・学校でひとたび問題が起これば、対人間として、役割を取り払って膝を交えて話す。教育者、保護者というペルソナをまずは取り払ってから話す。解決って、まずはそれからではないのかと思う。私は役割よりその人そのものが見たい。

建前で話すから水面下でもめるんだとも思う。教育者の顔、保護者の顔、そればかりじゃ意見はいつまでたっても平行線になる。確かに駆け引きが必要なこともある場面もあるかもしれない。でも、子どもたちと先生が主役の教育現場ににそんな大人の都合を持ち出していいんだろうか。

【利他の心を教えることで、ともに繁栄していく未来】を教育現場は教えてくれる場所であるはずなのに、大人同士が利己主義な立場にたって、子どもの問題を話し合う時点で、何かがおかしい気がする。

腹をわって話し合ったそのうえで、自分の役割を使ってできることをお互いが提案すれば良いんじゃないかと思う。理想論ばかりぶちかましますが、できるだけ正直に自分という個性をみんなが出し合えば、本当の意味での「人は人、自分は自分」が怒りもなく受け入れられるはず。言えない、という人がいるけど、言えないんじゃない、言わないことを選択しているんだと思う。

たまに「人は人、自分は自分」と言って、怒りや溜飲を下げるひとがいるけど、とても対処療法的でまた同じ問題を抱えるようになる。無視をしたり、深く考えるのをやめれば、また同じ壁や曲がり角で立ちつくしてしまう。その時の無力感は、空しく、寒々しく、孤独だと思う。

これは、今までの日本が意見を言わないことが得な社会であることの裏返しでもあるんだと思う。村八分という言葉が残る社会でもあるのだから目立って生きることはメンタリティに合わないんだとも思う。ってことは、強烈な個性のある人は生きにくい社会なのだろうか。マイノリティを受け入れにくい社会だったんだろう。出すぎる杭は打たれないけど。でも、今やどんどん変わってきている。その風みたいなものを私は最近日々感じています。自分を素直に出して生きている人の自由さはすがすがしく目に映る。率直な様子にも似ている。

宮古みたいに、風土そのものが貧していたところでは、ひとつも余裕がなかったので、率直に成らざるをえなかったのだと思う。優雅ではないけれど、私はその愚直さの方がしょうに合う。人をかけひきで押しのける世界はまだ余裕がある。手を取り合って生きていかねば、文字通り死んでしまうような風土では四の五の言っていられない。

いろんな意味で、現代の多くのこどもたちは、おとなしくレールに乗ろうとして閉塞感のなかで小さくなっているように感じる。ひ弱に見える。でも、それは彼ら自身だけの責任ではないように思う。選んでもらうように生きていくのはとても受動的だ。選ぶ生き方が難しいのは社会システムの責任だと思う。

そんな社会におびえた若い子たちと話すと感じる。彼らは「一度、レールから外れたら、二度と同じレールには戻れない」と感じている。20代で社会に適応化しなければ、社会から捨てられてしまう。ほんとはそうじゃないけれど、捨てられてしまうように感じるんだと思う。そういう意味で厳しい世の中だと思う。自分の子どもがそう育ってしまったら心配で死ぬに死ねない。やりたいことがあるから、あばよ!と言って、すがる私を追い払って足蹴にして、飛び出して行くくらいがちょうどいい。

そして、私たちの時代はまたハンドルの遊びの部分が多かったのかもしれない。いまだ社会的に言うと【アホな友達】は数多い。親の言うこともきかず、痛い目にあっているそんな馬鹿な友達が愛しいです。

人は役割に寄って生きるのではなく、役割を使って生きるのが正しいのではないかと思う。頑張って得られた、もしくは元々持っている役割があるのなら、それを上手に使えばいい。役割なんて道具だ。
問題を前に、自分がその役割を使ってできることを考え、実行することが【役割】の正しい使い方なのではと思うのだ。役割プレイみたいなので、いいんじゃないかと思う。昔、三浦じゅんさんが言っていた。親孝行プレイとか。そういうのといっしょで、役割プレイは楽しそうな気がする。

最近、同じような文脈で、よく考える。民主主義は、時間がかかる。時間がかかるから民主主義でもあると思う。それはなんでもそうだと思う。いろんな人もいろんな意見を集め、話し合い、結果を出していくことはとても時間がかかる。

かすかな積み重ねで世界はできている。少しでも多くの人が幸せになるためには、少しずつ駒を進めざるを得ない。日本の議会や裁判やいろんな社会システムが遅々としていると言われるけど、その慎重さは日本人の美徳ですらないかと思うことがある。宮古は一応日本なので、そのシステムにのっとってはいるけれど、ローカルルールの方がまだ強い。法律よりまわりの縛りの方がダイレクトに跳ね返る。それはそれでどうかと思うけど。

でも、私たちはどんどんスピードアップして、インスタントに結果を求めるようになった。先延ばしではなく、結果を粛々と待つ。そのためには自分でできることをする。それが、たとえ人から見て遅々としてつまらなくても。派手なパフォーマンスはいらない。それを子ども達に教えてくれるのが教育の現場なのだと思う。

特にこの時代の変わり目だからこそ、教育の現場は、急務な課題や問題もあると思う。でも、学校や先生だけに完璧を求めるのはやり方は、民主主義から遠い。

「先生だからこうあってほしい、先生だからこうあらねばならない」というのは、「母としてこうあってほしい、母だからこうあらねばならない」と同じだ。私は、そんなこと言われたら憤死しそうだ。いや、絶対する。良妻賢母からほど遠いせいかもしれないけど。

世の中は、民主主義は、差別をなるべく排除して「あなたはあなたらしくていい」と子どもを育てようとしているはずなのに、教育に対するインスタントさはまさに逆行しているように感じる。

役割そのものがその人の人間性ではないし。勿論、役割から人間性が作られることも多いと思うけど、役割だけで生きる人は、役割がなくなったとき、心が路頭に迷う。

そんなのは、つまらない、と思う。
その人があるがままに生きていることが美しいのに。
体の強い人は体を使えば良いし、頭のいい人は頭を使えば良いし、どっちでもない人はそれなりに生きていける、そんなんでいいんんじゃないかと思う。人に刃をむければ、返す刀で返される。それを教えてくれるのがローカルルールかもしれない。糾弾ばかりせずに生暖かく見守ることも一つの智慧かもしれない。

人を責めている時間があるなら、自分の心のなかに豊穣な世界を持ちたい。


宮古のおばあおじいたちが、普段と変わらない微々たる毎日を笑いや涙で過ごしている姿を見ると、人として尊いと思ってしまう。自分もその境地までいつかいけるだろうか、と。

ブログを書いていない間に、もめ事を数件見て、なんだか今日はこんな気分です。こんなことなら小出しに書けばいいかもしれない、笑。










Posted by 宮国優子 at 10:48│Comments(0)
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