実際に自分が取材していないので、詳しいことはよくわからないけど、結構驚くニュースなのだと思う。
全国紙では、琉球新報の記事を毎日新聞が引用している形になっている。
https://mainichi.jp/articles/20190111/rky/00m/040/002000c
こういうのを見ると、いつも「宮古島は日本なのか」ということに行き着いたりします。
これは、基地問題や自治権、今回の県民投票拒否とか、いろんなことに派生している気がする。
迂闊に書いてはならないけど、その感性、感覚、時代の格差たるや、一人の人間が知覚するにはありあまる。
確かに、宮古は日本だし、その法律で世の中が回っている。
でも、法律決めるのって、宮古ではないし、それは条例なんだよな。
どっちが悪いとかいうのではなくて、その格差、温度差に忘れないうちに周辺は書いておきたい。
ウルトラマン的に、怪獣倒してめでたしめでたしで終わらないのが宮古であり、離島だと思う。
実際は、日本社会でも同じだと思うけど、母数がちがう。宮古は母数がある程度、顔が見えるというところに、新聞もマスコミもある。島のマスメディアでしかない。わたしたちのこどものころは4面しかなかった、ガリ版刷りにも似た新聞だったのだ。ある意味、名ばかりでもあるけど、島の人のために尽くしてきた。
島は新聞社が乱立した時代があって、その群雄割拠ぶりはまだ変わらない。宮古島市教育委員会が作った「みやこの歴史」を読んでもらいたいくらいだ。同列に並べてはいけないと思う。
東京は、弱者の声は弱いので、身近で聞くくらいしかない。東京では、個人の小さなことが社会問題ではないという認識だと思う。
小さな声が集まって、ある程度の大きさになれば、勃発するけど、そこは落とし所がありますよ、的なレールまで敷かれていることが多いような気がする。
まぁ、こういうことを書くと、言葉に気をつけたほうがいいと言う人もいるけど、私は、そうは思わない。もっと、いろんな人に参加してもらってこそのメディアであると思う。
民意をお金をかけた、予定調和の討論会で測るのではなく、みんなが自由にネットで言えばいい。代わりにノーペナルティで。
もう数年もたてば、AIさまが集めてくれるかも知れない。それはほんとに祈りでもある。
政治的、社会的な発言をする島の人は大きくふたつに別れる(気がする)。
覚悟をもって、友だちがいなくなるかも知れないけど書くひと、話す人。
職業的な人。
その他大勢は、毎日をつつがなく過ごして、たまにちょっと政治的な社会的な何かがあって傷つくと、身近な人に言ったり、自分で咀嚼したり、っていう人が多いと思う。
私は、それが普通だと思う。そして、その方がいいと思う。
私が、それでも社会的、政治的なことを書く理由は、気づいたから。そして、あまり良くないなと思うことやなんでだろうと思うことは、知り合いに伝えたほうがいいと思うから。
それだけ、地域差による温度差はあるからだ。
情報があるとないのは全然ちがう。個人の決定が変わる。
ただ、つまらない見てもいない、信頼性のない人の言うことに右往左往するべきではない、と思う。ただの与太話に付き合う必要はないと思うので。
【松島倫明】ニュース・ポルノに浸るのはやめよ
という論考があって、私は本当にそうだと思うので、見たこと以外はSNSで書かないようにしている。疑問、という意味では書くけれど。
ステレオタイプの相手を想像して、遠慮がちに書くことは、無駄だなぁと思う。
なので、ニュースの類いに中傷と揶揄では読まない。思い入れとともに読むと、特に島関係のニュースは自分の目が歪む。
というか、もうテレビのニュースもあんまり見ていないけど。特に、芸能情報とか。世の中がいろいろそれで動いているのもわかるけど、私の人生とはあんまり関係ない。
でも、優良なコンテンツは、どんどん量産されている。それは見たい。こう考えると資本主義って、悪いものばかりじゃないし、こういう余剰も生む。
だから、信頼する人が勧めてくれるものは今の時点で必要ないかも知れないけれど、いずれ見るということもできる。
まぁ、何が言いたいかと言うと、第一報だけで判断する世の中では、宮古はまだない、ということが言いたい。一度、ミソがついたら、一生言われるみたいなのは、やっぱりなんか知性がない。実際を知らないのに無責任だし、実際に自分の大事な人がそうされたら悲しいし、私は怒りを覚える。そして、多分、行動する。
だから、その人の経験は重視するけど、肩書でどーだー、みたいな人は実生活でも避けている。
話を戻そう。
私は、嫌になって放り投げてしまったんだろうな、宮古新報の社長は、と思う。
きっと、新聞労連も驚いているんだろう。日本的に考えると、感情で会社をたたむなんてしないからだ。
その社員たちの失職の責任を、今までの新聞記者としてのキャリアをすくい上げるところはあるんだろうか?
そこまで考えて、外から関わったひとは考えているんだろうか?
こういうのが、宮古を壊すこと、でもあると思う。
壊してしまったほうがいいこともある。でも、個人の生活を壊滅させるのはちがうはずだ。新聞社に記者だけがいるのではない。販売も営業も印刷も、いろんな人がいるはずだ。その人たちはどんな思いであろうか。それとも、全員で反旗を翻しているのか。
私は、そんなオール的なことは、ないだろうと思う。生活がかかっているのだから。みんな不安のなかなんだろうと思うと、経営者の責任は大きい。そして、牽引した人たちの責任はもっと大きい。
私は、実際に自分が東京で宮古の記者をやっていて、感じたことはいっぱいあるし、宮古の世間的には書いてはいけないこともあると思っている。
労働組合は労働で対価をもらう人たちの組合だ。当たり前だけど。
でも、労働だけいう関わり合い方で仕事をしている人は、島には少ないように思う。なぜなら、東京の新聞労連の人たちが思うより、地縁で物事が動いているからだ。
熾烈な家族間の揉め事に発展しかねない、と思う。
一度SNSで、宮古の新聞社と契約について、ある人に不当に書かれたけれど、それは名誉毀損レベルだと思っている。訴えてもいいけれど、そんなことに時間をかけるのは馬鹿らしいのでやらない。憎しみに時間を使っている暇はない。
でも、いつか書くことにもなると思う。と、いうか、書いているうちにこうして出る。対決だけを求める、勧善懲悪の世界に興味はないし、今、振り返るとパワーゲームのなかにいたくないという表明でもあった。そして、私にとってはそれが島の人らしい選択であり、私の生き方でもあると思うことにしている。
誰かが苦しい思いをしているのに、余計な荷物をのせたくないという気持ちからきていた。ネガティブな、結局、SNSで馬脚をあらわすような、つまらない仲間なんていらない。私のSNS上で一度ならず、二度もあって、怒りを通り越して、島のマスコミおじさん(一部)の頭の中は、まだ数十年前と変わらないのだと思うにいたった。
こういうことを書いている時点で、なんとなくわかる人にはわかると思う。
今回のことは、取材せずに自分が経験したことを中心に書いている。警鐘を鳴らしたい。どっちが悪いとか良いとか、そんなことはもうどうでもいい。誰かが苦しまないか、という視点で、もう一度関係者が冷静に考えてほしい。
こういうことに関して、外野は無責任。パワーゲームを繰り広げるひともそう。他に誰か痛い人がいないか考えない。
同時に、セクハラに関しても、宮古の男の人の性意識の違いすらも、東京の論理で語ってはいけないと思う。パワハラも同じく。そういう時代に生きてきた人もたくさんいる。その人たちを責めるだけでは解決しない。こうしてちゃぶ台をひっくり返される。
弱い人には弱いなりの生き方や戦い方がある。私はそう思う。人頭税だって、今はない。形を変えて、こういう圧になっていると思うけど。
嫌がることをした人が悪いのは当たり前だけど、それを見過ごしてきたまわりだってそれ相当の責任はあるはず。一朝一夕ではないでしょう。パワーにパワーを使っても戦争になるだけだ。解決はしない。
もちろん、100%解決しないかもしれないけど、相互理解をあきらめてはならないと思う。肩書を持ってしか対話をしない人に、同じようなやり方でやるより、他に方法を探ったほうが良い。
大きな目的はいっしょなはずだ。誰もがより良い暮らしが宮古島にあるように、と願っているはずだから。
私は、宮古のマスコミに関わっていたし、責任があると思うので、個人としてこういうことは書いていきたいと思っています。多分、生涯、根本的な意見は変わらない。