2017年01月22日

しわ寄せの最たる場所が宮古島

しわ寄せの最たる場所が宮古島



今日は市長選と市議選の選挙日です。数時間後には結果がわかるはずです。

数日にわたって、書きたいことが山盛りありましたが、思ったより時間がとれませんでした。そして、言葉にしない方がいいこともたくさんあるかもしれません。だからこそ、誰を応援しているかということより、宮古の持つ数値化されない力を、どのように政治に生かしていくか、宮古の暮らしが良くなるような、宮古ならでは良さがなくならないために、忘れたくないことだけを書いておきたいと思います。理想論かもしれませんが。

今回、私が最優先したのは、宮古からの個人的な電話やメッセージのやり取りでした。一方通行で書くよりも、友人の話を聞くこと、議論することを主としました。みんな、真剣にとらえていました。もしかしたら、今回は、宮古にとって、民主主義という意味では大きなうねりの始まりかもしれません。

そして、私が、これから何をやっていくにしても、友人たちの言葉は、私の大事な礎になります。やり取りしてくれた皆さま、お礼申し上げます。

さて、本題。宮古では、ある意味、政治の話はタブーなのかもしれません。特に女性は議論する人たちは少ないでしょうし。まつりごとは、離島では、女性と男性、祀と政にはっきりと別れているように思います。

ですが、呪術というか、見えない世界からの脅威の方が大きかった中世が、この選挙戦でさえ、なにかまだ残っているような気がします。

最近、はたと思うことがありました。仲宗根將二先生の御本を読んでいて思うのですが、宮古の人の心性の部分は、やはり個の心ではないのだろうか、と。一人の祈る心が、少しずつ集まって、宮古を作っている。

そこには、時間や距離などの概念はないような気もします。ひとが心に想う強さや、どうにもならない運命のようなものに、一喜一憂しながらも、人生を生ききること。宮古の人たちのあきらめない様子に、私は心が動かされるのです。4人も市長選に出るなんて、日本的な合理的な判断からいくと、変だとと思われてもおかしくないです。でも、実際に行動に移してしまうのですから、誠にあっぱれです。

今回は、聞くところによると、現職の下地さん、奥平さんが事実上の一騎打ちのような様相です。勿論、真栄城さんや下地さんも追いかけるでしょうが。

私は個人的に、まずは宮古のことだけを考える市長であってほしいと思っています。沖縄本島も国も、ある意味宮古の外です。連携をとるには、まだまだ乗り越えなければならない壁がある。

それなら、まずは、宮古を考えること。どこの援助も期待せずに、最悪、見捨てられても、自分たちの食い扶持は確保できるような、そして、助け合えるような、そんなことを主眼における首長を望みます。自立するために、市民を説得できるような市長を望みます。宮古の規模は、首長と一蓮托生だから。今まで沖縄県ができなかったことです。本当の豊かさを、島の未来を、語り続ける市長であってほしいです。

今回の市長選では「私腹を肥やす」という言葉がたくさん聞かれました。私は個人的に、宮古は私腹を肥やしにくい場所だと思います。宮古の神様も、ひとの目も甘くない。あっという間に露見します。見ていても、私腹を肥やすというほどのレベルにはありません。

自分の身近な信頼できる人から腹を満たす努力をする、とても人間的な考えが根底にあると信じています。一人でも多くのひとを助けられるために、そうするしかない。あの世には金も力も持ってはいけないことを宮古の人なら重々承知でしょう。

私が目にする、会う宮古の偉いおじさんたちは、その人なりに懸命です。彼らには彼らの哲学があります。若い頃から、私ははっきりと反対意見も言いますが、押さえつけられることはほとんどありませんでした。意見の相違はありましたが、一人の人間としてきちんと対応してくれました。そこには党派などは関係ありませんでした。もっと大きな目で物事を見ているように感じました。コバンザメの偉くないおじさんたちは言わずもがなです。

そして、根底にある気持ちを話せるということは、私たちは宮古の人だという共通項だけが互いに大きな支えだったように思います。

ただ、普段の宮古の生活、市民レベルでは、平等ではないと思います。平等はとても難しい。個人的な価値観によるところも大きいからです。

その部分を是正するには、無駄な心の垣根をとっぱらって、市議や首長に、市民が物申していく機会をさらに増やしていけばいいのではないでしょうか。なんなら、言いにくい人がいる場合、マスクしてもいいくらい。もしくはバーチャルでもいいのです。

また、言語化できない人たちのなかに入っていくことの出来る、感じることの出来る、そんな人間性の高いひとが首長になってほしいです。徒党を組む人や、大きな声だけを拾っては欲しくありません。だから平等性に疑問符が呈されるのです。

このような選挙戦があると、必ずうがった目が存在します。世間という言葉が、生き生きと完全な形で残っているようです。だから、噂に頼った選挙戦なのだと思います。中傷ビラは、無駄すぎる。誰がそんなお金を出すのでしょう。そんなお金があるのなら、教育格差をなくすこと、お腹いっぱい食べられること、貧困層の親の精神的、社会的支援をしてほしい。必ず、こどもの未来につながります。

宮古の規模は、まだ、それが具現化できる規模のコミュニティです。自分たちの社会は自分たちで作ることができる。選挙熱の高さは、それが由縁です。サイレントマジョリティが、このように胸に熱く考えているのは都会から見れば希有ではないでしょうか。

横にそれました。

私は、今回、誰が選ばれても、たいして変わりがないように思います。きっと一長一短でしょう。でも、是々非々でいいのです。ひとつの立場にこだわることはありません。選ばれた市長や、市議や、支援者の誰もがその時思ったことを議論し、決めていけばいいのです。

そこには、県や国のタイムリミットがあるかもしれません。でも、残された時間で仕上げる強さが、離島には備わっているはずです。しわ寄せの最たる場所が宮古島です。だからこそ、智慧を合わせて、軽やかに、処理していくのです。組織や社会的な上層のひとは、末端のひとのせいにしがちですが、自分たちでできないことを押し付けているだけです。腕を磨いて、本当の民衆の力を見せていくのです。

そして、反対意見をきちんと掬うのです。長い議論にはなるでしょう。ですが、宮古の人たちには普段の生活のなかで、その素地はそなわっているはずです。世間が良い形で残っているからこそ、義理人情や うむくとぅ(世間知)もあるのです。

こう決めればいいかもしれません。「私たちは、誰を選んでも、私たちのために働いてくれる誰かをおとしめることはしない」と。批判はしても、おとしめるという愚劣な行為はしない誇り高い島の人間だということを見せる良い機会です。

ひとりひとりが環境に左右されず、ひとのせいにせず、運命を受け入れながらもあきらめず、懸命に生きていることを具象化するのです。他人を攻撃する暇があるのなら、鍬を一振りするのです。魚を一匹でも多く釣るのです。それは、困った隣人を助けるためです。まずは困った隣人の涙を乾かすためです。

思い出してください。宮古に住んでいた私たちが、時代に翻弄されなかったことがあるでしょうか。中央が少し動けば、長い尻尾の先のように、私たちは振り回されていたはずです。揺れまくるなか、私たちの先人たちは生きてきました。

それは、歴史を知れば知るほど、先人たちからのメッセージとして、心に響いてきます。死屍累々とした場所で、私たちの先人たちは何を目指してきたのでしょうか。

いわゆる民主主義なんて、私たちにはあったでしょうか。世界の民主主義だっていまだ途上なのに、私たちは何に習うことがあるのでしょうか。島が目指すところは、偏ることのない自治の確立なのだと思います。誰もが政治をあきらめず、世間から見捨てられず、社会に少しずつ関わっていくことです。

『島は、本気の民主主義』と書きましたが、今こそ、自治について考えるべきではないでしょうか。先人たちは切り捨てられる側の人間を両脇から支えることをしてきたはずです。宮古のひとなら、どうしようもない家族や親戚は数人いると思います。でも、完全に切り捨ててはいないはずです。疎遠にしたとしても。

立派なひとばかりの社会は息苦しい。弱い彼らが教えてくれることはたくさんあります。

それが豊かなことじゃないでしょうか。

宮古には、素晴らしい言葉というか方言があります。「あんたがわかるさ」です。

宮古の人は、悩ましい問題を相談されたら答えとして「あんたがわかるさ」と言います。これは、お前が考えろ、お前の自己責任だ、ということではありません。そんな冷たい言葉ではないのです。

「あなたが決めなさい」ということです。そして、それは、聞いてしまったから、私たちはこのような深い話を共有したのだから、最後までいっしょにあなたが決めたことを、ともにまっとうしましょう、ということです。

宮古の人のメンタリティは、言葉に現れます。ですが、言葉だけでは伝わるとは思えません。ともに時間を過ごせば、徐々にわかってくるのだと思います。それは、決して、いい人だと言うことではありません。

時には、弱く、ずる賢く、立ち回らなければ、人間は生きていけない、ということを実生活で深く知っているというだけのことです。だからこそ、打ち明けてくれたひとには心を砕いて、ともに添おうとする心が働くのです。たとえ、それが人にそしられることでも、相手に添うのです。今回の絵にあるように、まるで一対一の恋愛の対話のように、同じ人間になれなくても、心を添わせるのです。

はたから見ると、負け戦もあるでしょう。ですが、そんなものは単に表面的なことです。豊かさは内面にあるはずです。負け戦を共有したことで、馬鹿にされたり、損したりするかもしれません。ですが、心のなかは悔いのない清々しいものだと思います。それが豊かなことです。世の中の正誤は、時代によって変わるので、一番大事なことは自分がどう腑に落ちたかということでしかないと思います。今も宮古に生き生きと残るうむくとぅ(智慧)で、先人たちが自然から教わり、今も私たちの言葉や生活や行動様式に残っているのではないでしょうか。

悪口陰口は口が腐りますが、批判は背骨を立たせます。

批判とは、正面から人や世間や社会とつきあっていくこと。それが無用に裁かれないこと。個人の生活を権力を持つ方が壊さないこと。

まぁ、なんというか、結局、長くなってしまいました・・・とほほ。



















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Posted by 宮国優子 at 17:05│Comments(0)宮古現今
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